香川県高松市での整形外科・内科・健康診断・予防接種は吉峰病院へ。

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スタッフニュース

スタッフニュース いのちと向き合う毎日。病院とは、医療とは・・・。鏡に映る私たちをお伝えします。

院内版 第13号

リハビリを学ぼう

(ビデオでみるリハビリテ-ション)
登山事故による脊損のため車椅子生活をよぎなくされているニール・ヒメネズ監督の闘病体験をベースにうまれた映画です。
アメリカの脊損患者のリハビリテーションを実にリアルに克明に描いています。
前号で取り上げた"心の旅"とは異なり、ユーモアがただようアメリカ版「病院へ行こう」のようです。舞台はロサンゼルス郊外にあるリハビリテーション病院。
事故で頚損になった小説家がICUから大部屋に移されるところから物語は始まります。
一見、彼の苦悩は大きくないようにみえます。(脊損になっても小説を書き続けられるためかも知れません?)でも同室患者との交流、葛藤の中で彼の苦悩が次第に明らかになってきます。陽気にふるまう家庭崩壊の黒人、暴走族で保険金目当ての人種差別主義者の白人、多くの家族が見舞う韓国系青年。"人種の坩堝"であると同時に、障害の受容を促進するのも、この患者たちでした。
彼らと連れ立ってストリップバーでの馬鹿騒ぎ、電話交換所への殴り込みなどを経て、心の安定(障害の受容)を取り戻した彼は、退院の日を迎えます。
この映画で描かれているのは、普通のだめ人間の心のリハビリテーションです。
まだまだこの映画をみて、考える事がたくさんあります。
主人公と愛人とのベッドでの性行為の場面、カーテンを開けようとして気づいた看護婦は「失礼」といって立ち去ります。
同じような場面が伊丹十三の「大病院」にもあり、こちらは大騒ぎになってしまいます。こんなところにも日米の医療者の意識の違いが、あらわれているのかもしれません。
このビデオの題名は「ウォーターダンス」。ちなみにこの訳は「人生は水の上で踊り続けるようなもの」です。
前号で「逃亡者」でのリハビリテーションと約束しましたが、これは次回のお楽しみに!!

医者にかかる

時々こんな患者さんがいます。「すべて先生におまかせします。命を預けますので、どうぞよろしく」と言うのです。たぶん「あなたを信頼しています」という気持ちをこめた表現だと思います。
でも病気やケガを治すのは患者さん自身であって、医者が治すのではありません。医者は患者さんの病気を一緒に考えてあげる専門家にすぎません。
前回のコスモス新聞に"医者にかかる"について考えて下さいとお願いしました。
"かかる"を辞書で調べますと
物についてぶらさがる、よりかかる、もたれる、たよる、世話になる、;医者に診療してもらうetcとあります。
つまり、医者にかかるということは、医者に頼って、もたれてしまうことになってしまいます。「私の体をおまかせします」ということになります。
言葉にはひとつひとつ、それぞれ意味があります。いつからこの"かかる"が使われるようになったのかは不明ですが、日本では古い時代から病気やケガは医者が治すもの、患者は治してもらうもの、だったようです。
これでは、なかなか病気やケガが治らなかった訳です。
病気やケガをなおす主役が逆転しているからです。
病気やケガを治すのは患者さん自身なのです。医者、医療者はコンサルタントに過ぎません。だから医者にかかるのではいけないのです。医者にまかせっきりにしないで、上手にコンサルタントとしての医療者を使うことが大切なってくるのです。
患者さんに自分から病気を治すという意欲を起こさせるのも、我々の仕事なのです。患者さんと病気、ケガについて一緒に勉強してみて下さい。かけがえのない命、体なのです。
患者さん自身が自分の病気の専門家になれるように、私たちも努力をしましょう。

弱い者の側に立て

今年の四月、神奈川県秦野市の精神病院"越川記念病院"で入院患者にしてもいない治療をあたかも実施したかのごとくカルテに記入し保険請求をしたり、水増し工作をしていた事が明らかになったことがありました。
ヒポクラテスは神への宣誓の中で「予は誓う。およそ患者に対する処置は、ただ患者の必要と利益のためのみにし、いやしくも危害を招くごとき処置は戒めて、これを避けるべきことぞ」と誓っています。
本来、精神障害を持った人達の理解者であり、共に生きて行くべきはずの精神科医の自己の利益のための行為は許しがたきものです。
現代社会のように、歪み、不正が横行するような時代に、その身を正して生きることは大変難しいことです。しかし力に屈する事なく、弱い者、病める者、抑圧されている者の側に身を置くように努めれば、生き方に大きな誤りはないように思います。
越川記念病院の問題は一病院の問題ではなく、日本の医療の問題点の一端が噴き出たに過ぎません。
これを機会に医療とは、医療行政とは、医療者の道とはなどを根本的に考えてみたいものです。皆さんにもいろいろ考えていただき、意見の交換をしていきましょう。

親友と呼べる友

先日、ふと「お前に親友と呼べる友人が何人いるか」と自問自答して、あぜんとしました。意外と少ないのです。
親友は距離と時間を感じさせないし、多くの言葉も必要としません。
私が高松に帰ってからは、顔を合わす事もなく、時に電話で話す程度であったが、自分のことを判ってくれる男が違う土地で精一杯生きている。それで充分である。
多くの死に行く人たちの臨終に立ち会って思うことは、華やかそうに生きてきたようにみえても、人間はとどのつまりは孤独である。だからこそ親友は得難いものだと思います。若い時は友達は容易にできるが、年と共にできにくくなります。又、出来た友達も自分の歴史の中で、だんだんと減っていきます。そして終生の友が選ばれて残ってくるのです。
テレビドラマの「夏子の酒」をみて、感じたことがあります。美酒がその味、かおりを得るのにも、長い長い時間と手間が必要と同じに、友情もそれが友情としてなりたつには、長い時間を要し、いろいろな障害をくぐりぬけねばなりません。短い期間にできあがった友情関係は、多くの言葉を必要とし、また壊れやすいのです。
「あいつが俺を友達だと思ってくれている間は、自分もまずまずだ」というように。友は己の鏡でもある。

まなぶ

ある雑誌のコラムに"私の信条"というのがありました。
その中で「私は個々の事実の背後には、それらを大きく統一するものがある事を信じている。それはおそらく道理というものであろう。まず道理に思いを馳せることではなく、事実を丹念にみつめるべきである。...事実は静的な形でみるべきものである。そうして事実を動的にとらえるためには自己の経験として吟味してみることが必要である。」と。
患者さんから学ぶ。
今までの貧しい経験をかえりみて、"これを読んでいると絶対に役に立つ"といわれて、読んだ本に役だったものは少ない。むしろ重症の患者さんを抱えて病院に泊まり込んでいたような、忙しい時、病態の解明や治療法を考えながら勉強した時の方が、はるかに身についています。
患者さん一人一人が違うように、病気やケガもどれ一つをとっても同じものがありません。それぞれに症状や経過が違っています。
臨床の中で、何が一番勉強になったかといえば、やはり患者さんを良く診るということです。
このコラムを読んで、何の世界も同じであることを痛感しました。毎日の診療の中でいやおうなしに勉強せざるをえない事もありますが、今は勉強できることを幸せに思います。そして勉強したことが、日常の仕事の中で生かされることができるのも、有り難い事です。

よりよい地域医療を目指して

医療を中心に福祉・生と死・食べ物など、幅広いテーマを持ち、人々と心を触れ合いながらボランティア活動をする会を当院で発足したいと思います。
名ずけて「よりよい地域医療を目指す会」です。
患者さん、ご家族、看護婦、医師などが、互いに理解を深め、はげましながら楽しくやっていきたいと思います。
第一回の講演会を11月5日(土)PM2:00~PM5:00
屋島にある高松テルサにて行うことになりました。
講演者は
元プロ野球選手・現野球解説者 掛布 雅之氏
パラリンピックの銅メダリスト 高村 俊彦氏です。
楽しい、明るい会になると思いますので、皆さんも出席して下さい。
なお、お手伝いをしてくれる方、会員になりたい方は吉峰までご連絡下さい。