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コスモス新聞

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コスモス新聞第48号

教育の荒廃とは

藤原政彦さん著書の「数学者の休憩時間」という本を読みました。
その中で「アメリカのつまずき」という題で大変興味深い文章がありました。
途中、割愛しながらご紹介したいと思います。
アメリカ人は算数に弱い、つり銭勘定さえ手際よくできない、とよく言われる。
十年ほど前に私はコロラド大学で教えていたが、確かに数学の力は弱かった。
平均的な理学部一年生の実力は、日本の高校二年生程度だった。
弱いのは数学ばかりではない。国語力も相当に低下している。実際、アメリカ人学生の余りにひどい英語を、日本人の私が添削して返すこともたびたびだった。
また報道によると、海軍で最近採用された新兵の四分の一は、安全のための注意書きを読む能力さえなかったという。
少数民族、女性、障害者などに対する教育機会均等が、公民権運動以来ここ二十年ほどの重大課題であったが、これからは、平等(Equality)と共に質(Quality)も追求すべき、というのが共通認識である。
そして、より厳しいカリキュラムと教員資質の向上が、異口同音に叫ばれている。

ところがその一方で私は、ある「危惧」をも禁じ得ないのである。
いかなる国においても、いかなる時代にあっても、教育の荒廃が単独で起きることはない。と私は思う。
学力低下、非行、教員資質の低下等、どの事象をとっても、それは社会に深く根ざしている。
低下しているのは子供や教師達だけでなく、政治家も官僚も、学者も主婦もみな同様と考えられる。
人心の荒廃が教育において最も劇的に表れる、というだけなのである。今日のアメリカも例外ではない。
アメリカ教育の根幹に光を当てると、「論理的思考」がくっきりと浮かび上がる。日本の詰込み型と異なり、論理的思考を育てることに重心が置かれている。例えば、日本では代表的な暗記科目の社会科でさえ、アメリカでは論理的思考を育てるための教材となる。

小学校5年生に、「1800年前後に、東部からアパラチア山脈を越えて中西部へ移って来た家族の道中記を書け」というレポートが出されたりする。どんな家族かを自ら設定し、どの道を通り、どんな服装で、どんな食事をとっていたか。
どんなインディアンに出会い、どんな花が咲いていて、どんな歌をうたっていたか、などを調べて書くのである。
人に相談したり、いくつもの文献に順序よくあたり、それを自分の言葉で表現する、などの過程を通し、論理的思考が要求されるのは言うまでもない。
「何年に誰が何をした」を中心とする日本との違いは明らかである。 このアメリカ式やり方は、国際テストでの平均点を上げることに直接役立たないが、実に素晴らしいものと考えられる。

論理的思考がことさら重視されるのは、アメリカが他民族国家であることによる。
民族が異なれば言葉も習慣も風俗もみな違う。そういった人々を統一するには、誰にも共通なもの、論理を用いるしか他になかったと言える。
このためか、アメリカ人は実に論理的である。
知識でははるかに優れた日本人留学生が、いったん議論になると全くアメリカ人学生に適わない、というのはよく出会う光景であった。学生だけではない。
政治家、芸能人、スポーツ選手から、1/2+1/3も出来ない主婦に至るまで、驚くほど理路整然としたことを言う。
この点で日本人はかなり見劣りする。
論理重視の教育は、充分に効果をあげてきたと言える。それではこれほど論理的思考の出来る人々から成る社会が、なぜ荒廃するのだろうか。
論理的思考が万全でないのは、この世の中に、論理的に正しいことがごろごろあるからである。
例えば少年非行について、「厳しく体罰を加えるべき」も「体罰は絶対にいけない」も「ケースバイケースで体罰を加える」も、みな論理が通っている。
ユダヤ人虐殺のナチスにも、ベトナムをじゅうたん爆撃したアメリカにも、アフガニスタン侵攻のソ連にも論理はある。
問題はいくらもある正しい論理の中から、どの論理を選ぶかである。
通常、この選択は情緒によってなされる。

ここで論理を選ぶ、ということをもう少し詳しく考えてみよう。
論理を繰り返し用いた結果、AからZに到達したとしよう。Zは結論である。
図示するとA→B→C→・・・→Zとなる。
矢印が論理であるが、出発点のAは論理的帰結でないから仮説である。
この出発点の仮説を選ぶのが情緒なのである。
この情緒は、その人のそれまでの人生と深い関わりをもつ。
どんな家庭に育ったか、どんな先生や友達をもったか、どんな読書をしてきたか、どんな愛を経験したか、どんな挫折を味わったか・・・等、ありとあらゆる体験がこの情緒を形成している。
情緒の十分に発達していない人は、正しい出発点を選べないことになる。
このような人が、たまたま頭が良く論理に強いと、実に危険である。
出発点Aが誤っている場合、途中の論理が正しければ正しいほど、結論のZは必然的に誤ったものとなるからである。
ここに論理だけに頼ることの危険と、情緒の重要性がある。
情緒という言葉は、意味が広くやや漠然としている。
喜怒哀楽などの一時的情緒だけでなく、友情、勇気、愛国心、正義感など、さらにはより高次なものまで含んでいる。
私は多種多様な情緒の中から、とりわけ重要なものを二つを取り出してみたい。
一つは「他人の不幸に対する敏感さ」である。
これは生得的な情緒ではない。
小学一年生の子供でも、自分の母親が死んだ時には涙を流す。
しかしそれが友達の母親であった場合は、涙を流すことはまずない。六年生になれば涙を流すこともあるだろう。
すなわちこの情緒は、後天的に、教育などを通じて獲得されるものである。
もう一つは「なつかしさ」である。
これは一般に考えられているよりかなり高度な情緒である。
十歳の子供はなつかしさとは何かよく理解できない。
それは、その子がなつかしむべき過去を持たないからではない。
なつかしむ情緒が育っていないからである。
なつかしさの対象は自ら生きてきた過去だけに止まらない。
父母の青春時代をなつかしむ、祖父母の青春時代をなつかしむ、江戸時代をなつかしむ、万葉の人々をなつかしむ・・・といくらでも広がり深まる情緒である。
十歳児にこの情緒を期待するのは到底無理だが、二十歳でも三十歳でも、いや五十歳になってもこれのはなはだ希薄な人々がいる。
それだけこの情緒が高度なのだともいえよう。
私自身の過去を振り返ってみる時、喜びに比べ悲しみの方が、はるかに底が深くかつ永続的であることに気付く。
そして驚くべきことに、印象に残る悲しみというものは、ほとんど常に、何らかの形で"別れ"と関わっている。"別れ"は単なる物理的別離ではない。
"別れ"の悲しみは、深層において、「人生が有限である」ことに連なっている。
一定期間の後に必ず死がやってくる、という宿命からくる無情感やはかなさが、別れに色濃く投影されている。
すなわち人間の中枢には、死の意識があると言えると思う。
これは生物としての人間にとって、逃れられない観念なのかも知れない。
上にあげた二つの情緒は、ともにこの中枢近くに位置する。
教育の荒廃が人心の荒廃であるのは、日本も全く同様である。
日本人の情緒力もアメリカとは全く別の理由で、着実に低下しているようなのである。先日、思い立って以前から読みたいと思っていた、徳富蘆花の「思出の記」を読んだ。明治中期に書かれたこの長編を読んで、何より感嘆したのは、情緒力の強さだった。やや粗削りの文章でありながら、そこには日本人の情緒がいたる所に光っていた。
先に述べた二つの情緒も烈しい形で溢れていた。ふと私は、明治の強さはここにあったのだなと思った。そして小説や詩などの文学から流行歌までに考えを廻らせたところ、この強い情緒が明治から大正、昭和初期までは健在であった、との思いを深めた。この頃までに思春期を迎えた人々の情緒力が、断然光っているように感じられるのである。この情緒はその後、次第に愛国心のみに凝集され歪められ、敗戦と同時に全てが否定されたため、決定的打撃をこうむった。さらに戦後は、社会や家族がアメリカ型になった上、経済発展により貧困も解消したから、情緒力の低下は倍加されている。教育問題は、生徒と教師だけの問題ではない。教育荒廃は、国民の情緒力低下の指標である。当面の教育改革は、対症療法として無論大切である。
しかしそれだけに止まり体質改善を怠るなら、どんな制度的手直しを加えようと、遅かれ早かれ膿が再びどこかにたまることは明白である。

人間の理性ないし論理で、戦争を廃絶することが不可能なのは、歴史的に証明されている。現代人は過去の人達に比べ優れた理性を持っているから、戦争を回避できる、と考えるのは傲慢以外の何ものでもなかろう。こう考えた時、核戦争から人類を守るには、地球上のあらゆる人間の、美しい情緒にたよる他に、どんな手だてもないような気がする。故郷の山河をなつかしみ、故郷の空、土、風、光を想い涙する人が、核戦争のボタンを押すとは、その人がどんな論理どんなイデオロギーの下にあろうと、私にはどうしても考えられないのである。
作家 故新田次郎氏の次男である藤原正彦さんは僕の友人のいとこでもあります。
その友人が最近、送ってくれた本がこの「数学者の休憩時間」でした。
勉強も大切ですが、情緒を育てることも大切だと書いてありました。
他人の痛みに敏感に反応することができるなら、いじめの問題が起こることもなく、昨今の残虐な犯罪もなくなることでしょう。