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コスモス新聞

コスモス新聞 病院からのお知らせ、ちょっとしたエピソード、医療に関するお話、患者様よりお寄せ頂いたメッセージ、思い出の映画など情報満載です。

コスモス新聞第181号

野球王国 香川伝

香川で野球が始まったのは、明治27年、高松中学校(現在の高松高校)の校長がアメリカの「ベースボール書」を手にし、野球部を創設したときからだといわれています。大正4年には、甲子園といわれる全国高等学校野球大会の前身である全国中等学校野球大会が開催されました。甲子園、東京六大学野球、プロ野球を通じて二人の讃岐男が、戦前から戦後にかけて、まるで運命の糸が絡み合うように、宿命の闘いを繰り広げました。その闘いのドラマは、あたかも戦国時代の武将を髣髴させ、日本中を興奮と感動の渦に巻き込みました。その二人の讃岐男とは、水原茂、三原脩のことです。彼等は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルでした。水原が入ったころの高松商業は、春の第1回選抜大会で全国優勝したのを皮切りに黄金時代を迎えていました。水原の先輩で剛腕投手として知られた宮武三郎、のちに慶応大学に進み、東京六大学野球やプロ野球界で活躍しました。高松商業では、投手・三塁手として活躍し、春夏合わせて5回甲子園へ出場しています。第2回選抜大会で全国準優勝し、第11回選手権大会では全国優勝を達成します。三原は、夏の選手権大会四国予選で初めて対決しますが、三原高松中学は高松商業の水原の前に手も足も出ず敗れています。そのころの日本の野球は、学生野球が花盛りの時代で、甲子園の野球や東京六大学野球に熱狂していました。このような中で、高松は野球が盛んなで、全国大会へ高松商業、高松中学が出場すると勝つわ勝つわ。その為、「野球王国」と呼ばれ、四国を制する者全国を制すとまで言われました。昭和3年、水原は、先輩の宮武三郎がいる慶応大学へ、一方、翌年、三原は早稲田大学へ入ります。

水原と三原の二人は早慶戦でも対戦をし、水原と三原の二人は東京六大学野球のスター選手として人気を博します。しかし、三原は、春の大会後、スター選手の座を捨て野球部を突然退部し、病床にいた父のために、香川へと帰郷します。
一方、水原も秋の大会後、慶応野球部を退部します。早大側応援席から投げ込まれたリンゴを慶大三塁手の水原が投げ返したことにより乱闘事件が発生し、その責任をとったといわれています。これが「水原リンゴ事件」です。その後、水原は実業団野球に一方、三原も都市対抗チームに参加します。昭和9年、ベーブ・ルースらが加わるアメリカ大リーグチームが来日することになり、アメリカチームと対戦するため日本でもチームが結成され、三原、水原らが全日本チームに参加します。投手の沢村栄治もこのとき一緒に参加しています。
こうして日米野球の盛り上がりもあり、昭和9年、わが国で初めてのプロ野球である大日本東京野球倶楽部が創設され、水原も三原も加わります。昭和11年、水原は巨人軍のメンバーとしてアメリカ遠征をします。一方、軍隊にいた三原は、この年の7月末、1年余りで除隊することができ、秋のリーグ戦から選手兼助監督として巨人軍に復帰します。そして、この年の巨人軍は、トップ・二塁手三原、二番・三塁手水原で始まる打線で、沢村投手を擁してタイガースに勝ち初優勝をします。

しかし、翌昭和12年7月、三原は、再び召集され、中国戦線へと赴きます。そして激戦に加わり、このときの戦闘で左太腿に貫通銃創弾を受けます。翌年、除隊した三原は再び巨人軍に復帰しますが、審判とのトラブルにより、その年、現役を引退します。水原はその後も巨人軍で活躍し、スター選手となります。主として三塁手として活躍します。日米開戦直前の昭和16年、三原は3度目の召集令状を受けビルマ戦線へ赴きます。一方、水原も応召され満州へ出征します。二人の戦争体験は悲惨を極め、三原は多くの兵士が病死したビルマでのインパール作戦に従軍し、水原はソ連軍に連行されてシベリアで強制労働に就かされます。

ビルマ・タイ国境で終戦を迎えた三原は、敗戦後1年近くも経てた昭和21年、九死に一生を得て帰国します。その後、読売新聞の記者として勤務していましたが、再び野球の世界に復帰するチャンスが廻ってきます。翌昭和22年、請われて総監督の立場で巨人軍に復帰したのです。
一方、水原は、昭和24年4年間のシベリア抑留生活の末ようやく帰国し巨人軍に合流します。出征から7年ぶりでした。試合前にホームベースで「水原茂、ただいま帰ってまいりました」と報告し、ファンから大歓声を受けます。このとき、三原が花束を持って水原を迎え、二人は固い握手を交わします。

戦前、水原は名プレイヤーとして多くのファンの人気を得ており、そのプレーを再び見たいという声が高まります。しかし、水原は既に現役選手としてプレーするには無理な年齢となっており、勝つことを優先する三原が水原を起用することはありませんでした。そのような中、三原巨人は圧倒的な差をつけて優勝を果たします。

ところが、巨人軍のチーム内から、「三原は水原に対し冷たい仕打ちをしている」という批判の声が出てきます。そして、その動きを受け三原は退団、水原があとを受けて巨人の監督に就任します。巨人を去った三原は西鉄ライオンズの監督に就任します。そのときの心境を三原は、後に、「私は報復の思いを胸に秘めて関門海峡を渡った」と記しています。西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓ったといわれています。

一方、巨人軍の監督に就任した水原は、3年間連続でリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たします。そして、その名声はますます高まり、球界の寵児となります。一方、三原西鉄は我慢の日々が続きます。こうした中、ついに転機が訪れます。昭和31年、水原巨人はセリーグ優勝し、三原西鉄もパリーグ優勝を果たします。ついに、三原と水原は日本シリーズで闘うことになったのです。当時、この2人の闘いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、知将・三原vs勝負師・水原ともいわれました。そして、この闘いで、三原西鉄は4勝2敗で水原巨人を倒し、念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げます。ついに、三原は自分を追った巨人に対して、報復を果たしたのです昭和33年、三原西鉄と水原巨人は再々度それぞれリーグ優勝を果たし、3年連続、日本シリーズで対戦します。巨人には新人の長嶋が加わっていました。2年連続で三原西鉄に辛酸をなめさせられた水原巨人は初戦から3連勝し、日本中のがとうとう水原巨人が三原西鉄の息の根を止めるときがやってきたと思いました。しかし第4戦以降、奇跡が起きたのです。西鉄はなんと稲尾和久が一人で4連投し、しかも4連勝したのです。まさに逆転の日本一で、三原の凄まじい執念が試合の流れを一気に変えたといわれました。

この時稲尾が受けた称号が「神様・仏様・稲尾様」というものでした。また、この頃の三原西鉄を打撃で支えたのが「怪童」といわれた中西太です。昭和34年、パリーグでは鶴岡南海が優勝し、三原西鉄は力を使い果たしたかのように4位に終わります。一方、水原巨人はセリーグ5連覇を果たし、セリーグの覇者としての地位を守りますが、日本シリーズでは鶴岡南海に破れ、日本一の座に4度涙を呑みます。三原は西鉄を去り大洋監督に就任。いよいよ、水原と三原の二人が同じセリーグで闘うことになったのです。セリーグ覇者の地位を守ろうとする水原、これを攻め取ろうとする三原、二人はペナントレースで死闘を繰り広げます。昭和35年、三原大洋は水原巨人と激しく優勝を争い、三原はついに水原巨人を突き放して大洋球団初のリーグ優勝を果たします。水原巨人は2位に終わり、またしても三原に煮え湯を飲まされる結果となりました。このときが三原の絶頂のときでした。一方、水原は優勝できなかった責任を取り、11年間務めた巨人軍監督を追われるような形で退任します。勝者が出れば、必ず一方に敗者が出るという勝負の世界の厳しい掟でした。しかし、野球の世界はまだまだ水原を必要としていました。水原は、昭和36年から東映の監督に就任したのです。今度は水原がパリーグに移ったのです。そして、昭和37年、リーグ優勝を果たし、さらに日本シリーズも制覇します。巨人を追われた水原が東映を育てて巨人に一矢を報いたのです。

水原は昭和46年、三原は昭和48年退任します。水原と三原は小次郎・武蔵にも例えられた永遠のライバルで、ユニフォームを脱いだ後は交流がありました。水原は「三原は素晴らしいライバルだった。彼の先を見通す眼の確かさ、着眼点の素晴らしさには敬服した。」と、三原は「彼がいなかったら私は野球人にはなれなかった。感謝しなければならない。」と、それぞれ相手を称えたといいます。
中央公園は、かつて中央球場があったところです。公園南側には、水原茂と三原脩の銅像が建立されています。その台座には「野球王国高松を築いた名将」という字句が刻まれています。その像を見ると、今まさに何かを二人が語ろうとしています。昔は野球王国だったのにね・・・・・・散歩の度に、この銅像を見ると当時の野球場が浮かんできます。私はまだ、生まれていないのに。
野球王国が復活したらいいですね。毎日、応援です。


映画楽会のお知らせ

今年の夏は例年になく暑い日が続いています。昔から暑いときはなんとやら。
そのために今回は怖い映画を皆さんと鑑賞しましょう。一人では観れませんから。
それは怪談佐賀屋敷です。

8月28日(木)。13時より上映です。

暑気払いには絶好

こんなすごく怖い映画はめったにお目にかかれません。

私は、幼少の5歳頃に叔母の映画館で見たのを覚えています。その頃、立て続けに化け猫映画がやって来て、私はそのたびに見ました。今、大の大人、それも孫がいる年齢になって見てもぞっとするほど怖いのですから、幼少の私が怖がったのも無理からぬはなしです。
手で顔をおおい、隙間から見ていたものでした。

その頃の家は縁側のはずれにトイレがあり、何故か電灯が暗かったのです。しかも昔のぼっとん便所。
夜、トイレに行く時は電灯をつけるのですが,光の揺れが生きもののようにまわりの陰を動かし、下には真っ暗な底なし沼があり、化け猫の手が伸びてこない方が不思議なのでした。板壁の木目模様をじっと見ていると何時の間にか化け猫の顔になってしまうのです。

そんな体験のトラウマが裏目にでたのか、私は怖い映画が大好きです。

入江たか子は公家の出身で、舞台女優から映画界へ、そしてその美貌で一躍主演スターになりました。
戦後、彼女に舞い込んだ役が化け猫の役でした。それがこの怪談佐賀屋敷です。映画は大ヒット。往年の大スター入江たか子を皆が見に行ったわけです。
その後、怪猫有馬御殿、怪猫岡崎騒動、怪猫逢魔ヶ、怪猫夜泣き沼と化け猫映画に出演しました。私が入江たか子と再会したのは、黒澤明の「椿三十郎」でした。私は中学生、入江たか子はふっくら太ったおばさんになっていました。

洋画の怪談話といえば吸血鬼とかフランケンシュタイン、ゾンビなどが浮かんできますが、日本映画の怪談は殺された人間の怨念が祟って悪人を滅ぼすという筋書きが大半です。したがって、幽霊や化け猫は善悪でいえば善の側なんです。そう思うことで心を慰めることにしています。

ちなみに私は鯉が食べられません。入江たか子が化け猫になって鯉をむさぼり食ったのを見た幼少の頃より、鯉は見たくもありません。

私は栗林公園に行っても鯉に餌をやりません。うまかろうがまずかろうが、私は絶対に食べません。