| 上野: |
先生が長くこの60年、医道、医の道を歩いてこられて、今、医の倫理というふうなこともよく言われますけれども、この医者としての信念といいますか、もっとも大事だと思われることは、どういうことですか?
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| 吉峰: |
ちょうどあのころ、戦争中でしてね。医者になるのには、三つの鼎が大切だといわれたのです。鼎というのは、三つの大切なことですね。一つは医学、一つは医術、そしてもう一つは医道だと、そういうふうに叩き込まれたのですけれども。
今回、ある雑誌社に頼まれまして、「医の道、思考五十有余年」ということを、ちょっと書いたのです。それを書くときに、医者として何かを書け言われたので、書こう思ったら、やはり医道だなと思いまして、それを書き始めようとしたら、医道といったら、武士道というように、「道(どう)」というのは、もう命を捧げるとか、命をかけてやるというふうなことだと思いまして、これは医道ではいかん、医の道だなというふうに思いまして、それで、医の道というふうにしたのです。
医は仁術である、とよく昔からいわれます。その仁というのは、昔、二千数百年前に孔子という偉い人がおりまして、論語など書かれていますね。 |
| 上野: |
論語の……。 |
| 吉峰: |
あの方がですね「仁とは心。人の守るべき道だ」と。守るべき道だといわれるのですね。そうしたら、現在の日本でまあ、いわば介護保険ですね。もう、そういう時代の仁というのは、医者が仁術があるということは、医者は自分の持てる能力、力、全知全能といいますかね、それをすべて患者に尽くすのが、仁であって、昔のように、患者に何かを施す、ということは仁ではないなと、いう気持ちで、私はそういう医の道というのを、そういうように考えておるわけなのです。
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| 上野: |
貧しい人からお金を取らないで治療してあげる、というふうなことが、昔は仁といわれましたけれど。
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| 吉峰: |
そうですね。 |
| 上野: |
そこが若干、国民保険の時代は違うわけですね。介護保険の時代は。 |
| 吉峰: |
医の道といいますか、医の仁も昔と変わっている。倫理もしかし、変わっているのではないかと思うのですね。
日本ではなしに、外国ではね、医者は自律、自らを律する、自律をもたなければいかんと、自律の精神というのは、どういいますか、自分の中でできた規律といいますか、それを守って、ほかの人から拘束されないと、そういう信念、それが自律だろうと、僕は思っているのですけれどね。
ウイリアム・ウォスラーという、これはアメリカの近代医学を作った偉い人なのですけれど、その人が自律というのはプロフェッショナル・フリーダムだと、裁量権だと、日本語でいえばですね。プロフェッショナル・フリーダムをいうのだというのでアメリカ医学は進んできたのだそうです。
ただ、しかしそう、なるほど、と思っていたのですけれど、1960年ですか、世界医師会がジュネーブ宣言というのを作ったのですね。それは、医者は人に奉仕する心を持たなければいかん、奉仕するとは、患者に奉仕するとは、自分の一生を捧げるのだと。それには良心と尊厳、尊厳といったら、まあ、命の大切さということですか、それを持って奉仕する、一生を捧げる。これが医者のあるべき道だと、あるべき姿だ、とジュネーブ宣言いっております。私も、もう、その通りだと。ですから、医者は医療のためにすりこぎ、すり減らす、その気持ちが本当の医者の医の道であって、医の心ではないかというふうに、実は私は思っております。
まあ、私もこんな偉そうなことを言ってはいかんのですけれども、それのみに尽きると。だから、医者がほかのことに手を出すのはこれは邪道、といったらちょっと言いすぎですかな、といって、いわゆる投資ですね。よく電話がかかってくるのです、「株はどうですか?」と。僕はぜったいに、今まで株には手を出さない。この信念だけは60年間守ってきました。 |
| 上野: |
吉峰先生は、昭和16年(1941年)、これは太平洋戦争が始まった年ですけれど、その年に京都大学医学部に入られたわけですが、先生のその医の原点は満州、旧満州、現在の中国東北部、そこにあるというふうに、よくお書きになってますね。 |
| 吉峰: |
はい。それがですね、ちょうど満州建設勤労報国隊というものがありましてね、戦争中。 |
| 上野: |
一種のボランティアですか? |
| 吉峰: |
そうです、ぜんぶ。そして医者は医療特技隊というものがありまして、いまいわれました所の開拓村の巡回診療。この時は学生ですよ。学生が、満州にある開拓村には医者がいないものですからね、診てもいいと。それで僕らは行ったのです。
実はその開拓村の行ったときのある夜、ある人が訪ねてきたのです。「今、子どもが死にそうで困っているから、いっぺん診てくれんか」と。あのころ、満州の開拓村では医者がおらんから、診る人がおらなかったのですね。その班長の先生が、この方は東京大学の講師の先生でした、あとはみな学生ですけれども、「誰か、行かんか?」と言われたのです。そうしたら、誰もね、ちょっとまだ学生ですからね。僕がね、じゃあいいやといって手を挙げた。そうしたら、「吉峰行け」それで僕は行った。あれは、満州の開拓村というのは一里、二里離れていたのです。 |
| 上野: |
満州の開拓村というのは、日本から大陸の開拓のために行ったかたがたの村ですね。 |
| 吉峰: |
そう、そう、そう。家族と一緒に行った村なのです。それで、行ってね、診たら、一歳ちょっとの赤ちゃんですね。それがもう、体(からだ)中しわだらけ、目も顔も全部。そしてね、もう息も絶え絶え。これはいわゆる栄養失調症の脱水症ですね。と僕は思いましてね、僕はもう見てから震えたのです。どうしたらいいかわからないのです。ただその時にちょうど、今だったら点滴というものがあります。あの時は点滴はないし、大きなアンプルを点滴のように入れて、だいたい太ももに、それを刺しながら、揉みながら入れる方法があるのですけれども、その500などは持っていないわけ。手元にあったアンプルのブドウ糖の二〇・だから、ちょっとですよね、それを皮下に打ったのです。打ったらね、泣きもしないのです。普通の子どもだったら、ギャンギャン暴れますわね。泣きもしないで、何かボウっとして、もう目が潤んでいたのがね、目が開いたのです。それで、目が動きだした。そうしたら、家の周りの人がね、「目が動いた!」といって喜んでくれた。
ところがね、僕はこれで助かるのだったら嬉しいけれど、これは助からん。恐ろしかったです。それで、その恐ろしさというのが、「ああ、こんな恐ろしい、命を扱うことは、こんな恐ろしいことか。これは大切なことだ」ということが気がついたわけですね。私は、それを、私の体験上から医の原点だと、今も思っております。 |
| 上野: |
その赤ちゃんが結局、亡くなられたそのときに、一つの命というものを感じられたのだと思いますけれど。 |
| 吉峰: |
はい、それでね、私あのころアララギというのに入っておりましてね、ちょうど歌をしておったのですけれど。 |
| 上野: |
短歌の。 |
| 吉峰: |
短歌の方ですね。それで、そのときの書いたものがちょっとありますけれど、
「細腕に 注射をうてど 声上げて 泣く力無し 診つつ寂しも」
というのを作った。
ところが、お父さんが夜中の2時か3時ごろ訪ねてきたのです。一里か二里離れているのですよ。そして、「もうあの子どもは亡くなりました」。そして、「先生」と言われたの、僕に「ありがとうございました」と頭を下げられてね、僕はびっくりして、まあ、感激より身震いしたのですけどね。
それでやはりその晩、私も眠れんですね。ちょっとそのことをまた歌にしたものがあります。
「空(むな)しくも 幼き命 消えたりと父来たり告ぐ 深きこの夜に」という歌を作って、夜、寝られなかったものですから、その晩。まあ、その幼児七首というのを作ったのですが、その中でもうひとつ、「われも診し 幼子(おさなご)なりきとこしえに ゆけりと聞けば 悲しきものを」これが私のあのときの記録の、気持ちの現われで、私はこれがもう私の医者としての原点だと思っております。 |
| 上野: |
そのお子さんが、赤ちゃんが亡くなったにもかかわらず、お父さんがその夜中に、わざわざ先生のところへそれを知らせにみえたわけですね。 |
| 吉峰: |
そうなのです。
ただ、医の原点といいましたらね、一般的にはね、社会人としてのヒューマニズムだというのが、宮本忍先生という方が書いておられます。私もそう思います。ただ、このヒューマニティーというのは、これは医者からの考えであって、患者から見たらですね、この宮本先生は、大切なのは人間的愛情だと。患者が求めているのは、人間的愛情だと。それと、周りの人が理解する。理解、それから励まし、そういうものを求めているのだと。医者もそれを忘れてはならんぞと、まあ、そういうことをいっております。そういうものを読んでいましたらね、人間というのは、知性と感性のバランスが合って始めて人間性がでてくるんだなあと。
そうすると、今のまあ、偏差値教育というのですか、大学を出て、医者になって、というかたは、まあ、たくさんおられますけれど、何か私は、そういうヒューマニティーとか、そういうものがないのではないかなという気がするのですね。
というのは、なぜそんなことをいうかというと、私のところへいろいろな先生が来ます。それで、あるとき、これはもう外国に留学して帰ってきた先生だったのです。若いのですけれども、秀才、ものすごく偉い先生。それが患者に回診して、「わしみたいな偉いのが来たのだから、お前、感謝せえ」というような意味のことを患者に言ったらしい。看護婦がそれを聞いて、「先生、こんなことを言っています」と僕のところにいってきた。これを聞きましてね、これはちょっと、やはりヒューマニティーに欠けているのではないかと。
だから今の、若いといったら失礼だけれども、若い先生にそういうものをもっと勉強してもらうか、そういう、いわゆる哲学的なものを持ってもらいたいなというように、実は、心の陰で密かに思っております。 |
| 上野: |
そうしますと、今の医者になるかたがたは、大変学業の上では優秀、いわば医学は優れて修めておられますけれども、その医の心、医の道という点において欠けている面があるのではないか、とおっしゃるわけですね。 |
| 吉峰: |
はい、そうなのです。だから、医者というのは医学だけでなしに、やはり、それ以前の、まあ、人間性ですね。人間とは何かとか、人生とは何かとか、生きることは何かとか、そういうことを、もう少し哲学することを、学び、また教えなければいかんのではないかなと。
大学では学問だけを教えます。学問だけ教えて、そして学問だけで、それは医者の医としての学問はいいのですけれども、本当に患者と接する場合は、これでは私は、やはり、足らんのではないかと。患者には患者としての望みがあり、希望があるから、それをやはり考えてあげねばいかんと、そういうふうに思ってます。 |
| 上野: |
先ほどの、旧満州での開拓村での、その子どもを亡くされたお父さんが、夜わざわざ先生のところへ、その子どもが亡くなったと報告に見えたのが、まさにその、医の原点とおっしゃいますのは、その患者と医者のありかたという意味でも……。 |
| 吉峰: |
そうなのです。ですから、医者は、さっきのジュネーブの宣言のように、患者に奉仕する心、体も、身も捧げねばいかんという気持ちですね。ところが、患者の方もそれに対応して、自分の心を替えて、自分で病気を治そうという、そういう気持ちを持つのが、やはり患者としての道であるであろうと思うのです。
昔、もうこれは戦前の先生ですが、東京大学に偉い先生がおりましてね、その先生がいわれておりますのが、「その病と共にその人を医す」、ということをいっていたのです。その人を医すというのは何か、その患者さんの、考え、心をよく聞いて、そしてその中にいろいろなことがあります。それを、医者も教えられることもあるし、そういう心と心の対話、それができたら、患者のほうも先生と一緒に、自分の病気を治そうという心ができてくる、気持ちになる。その気持ち。だから、医者が治そうという気持ちと、患者さんが治していただきたいという気持ちが、一生懸命に、一緒になると、それが本当の医の道ではないかと、実はそういうふうに思っております。 |
| 上野: |
まあ、確かに、医者という仕事は、相手が人間でありますから、そこらへんが、普通の学者というのと、研究とはまた違う面があって、まさに、その体を治すということは、心を治すということに通じるわけでございますね。
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| 吉峰: |
そうですね。私、そう思います。 |
| 上野: |
そういった面では、医学部の学生さんたちは、医学を学ぶだけでなくて、人間の心というのを学ばなくてはいけない。人間を磨かなければいけない、とおっしゃったのですけれど、先生ご自身のその人格形成といった意味で、どういったことがいちばん……。 |
| 吉峰: |
いやあ、僕らはね、戦前ですからね、旧制の高等学校ですね。旧制の高等学校が私、よかったと思うのはね、あのころは自由奔放といったのですね。自分の考えをそのまま、自分の気持ちといいますか、自分というものをそのまま、赤裸々に友達に出してみせる。
あのころ、カーライルという哲学者が、自由とは神聖なものである、というふうなことをいわれまして、それをわれわれ、一生懸命感じましてね、われわれはそういう自由の中で、しかしそれは、自分勝手で好きなことをする放縦ではないのだぞ、という自信を持ってやっていましたから、友達というのがかなりできました。
友達はその時の、現在はその場限りのものではあっても、友情というのは、これはもう、未来に続くものだと、自分が生きている限り続くものだと。
僕のそういうのを教えてくれたのはね、僕の友人に小松勇五郎という人がおったのです。もう亡くなりましたけれど、高等学校が一緒で、彼は、東大の法科にいきまして、四十八年ごろですか、通産省の事務次官までなりました。
これは僕の親友で、いろいろなことを教えてくれるのですけれど、彼が、まず本を読めというのですね。あのころ、文科と理科がありましてね、理科というのは医者とか工科の方へいくのです。文科は、経済とか法律科とか文学部にいくのですね。だから理科などというのは本をあまり重要視しないのですね。で、その時にその小松君がね、「読め」と、あのころよく読んだのが『善の研究』です。 |
| 上野: |
西田幾多郎。 |
| 吉峰: |
ええ、そうです。それから、『愛と認識との出発』。 |
| 上野: |
倉田百三ですか。 |