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エッセイ

エッセイ

やまざくら「(3)」

病室に入ったとたん、緊迫した空気に包まれてしまった。
物も言わずに二人の女性が睨み合って立っているのだ。
部屋のすべてが停止し、吸う息さえこわばっていた。
その時、窓のカーテンが柔らかな風を含み、丸く揺らいだ。
「古川さん、どうしました。」驚かないように大声でなく、静かに呼びかけた。
「あっ、先生、この人、私を疑っているのです。」
古川さんが坂井さんを指さした。
まるで幼稚園児童のケンカだ。
「疑いますよ。この前も財布を盗んだって言われたのですから。」負けずに坂井さんが言い返す。
坂井さんは変形性膝関節症の老人だ。この病気は肥満の女性に多く、坂井さんもよく太っていてよく笑う。
顔の中の二本の線のような目がいつもは半月になって柔和な感じだが、今は怒りのために吊り上がっている。
偏屈さがないでもないが、自ら揉め事をおこすタイプでもなく、たいていはつらそうにベットからはみ出している足を引っ張りながら、「太いって罪悪でしょうか。」と反省している。
同じ病室の人達は、ことの成り行きがどうなるのか興味津々のようだ。
火の粉が来ないなら、退屈しのぎに持ってこいと、この騒ぎを歓迎しているようにもみえる。
悪いことにこの騒ぎで、あちこちのドアから顔がのぞいている。「いつ頃、なくなった事に気がついたのですか。」
僕はそっと聞いた。
けげんな顔で古川さんが「何が?」と答えた。
「お金はどこに置いたのですか。」もう一度、質問をしながら、険悪な二人の間に割り込むように立った。
「お金? お金って何?」無邪気な返事が帰って来た。
あんぐりと皆が口を開けた音が聞こえた。いや、ような気がした。「古川さん、あなたのお金ですよ。」一言ずつ、くぎって言った。「やだっ、先生、私が盗られたのは財布ですよ。」
病室にいた観客は一瞬、訳がわからなかった。
「何言ってるのよ。それは先週でしょっ。」疑われた腹いせも混じって坂井さんがピシャッと言った。
「えっ、そんな、先週がどうしたの?。私は財布がないっていってるのよ。先生、どうしたっていうんですか。」当惑顔は本物だ。
思わず絶句している坂井さんに、にこやかな笑顔を見せて、平然とベットに向かって歩いて行く古川さん。
納得できない気持ちを抱えたままの坂井さんも毒気を抜かれたみたいで、何といっていいかわからずにその場につっ立っている。
「えー、お後がよろしいようで」と、チョチョーンと拍子木が鳴り、ここで幕と、芝居ならなるはずだ。
だが残念な事に拍手喝采もなく、婦長も僕も黙って舞台から退散した。
 閑散とした廊下を歩きながら婦長が「先生、古川さんはどうしたのでしょうか。」と聞いて来た。
「たぶん、痴呆症の初期段階だと思うのだが、もう少し様子をみないとはっきりした事は言えないが。」
「あっ、そうだったのですか。」つぶやくような返事だった。
現実と想像の強迫観念とが、寄せては返す波のように繰り返され、その比率が段々と現実から遠のいて、やがてその境さえつかなくなる。
痴呆とは、正常に発達した知的活動が何らかの原因(器質性の疾患)によって低下したものです。
例えば、脳卒中などによって、脳が壊死(脳軟化)して、知的低下したものが"痴呆"の典型です。
この痴呆の中で老年期になって発症するもの(脳卒中やアルツハイマー病・神経原性繊維変化など)によって起こる痴呆性疾患を「老年性痴呆」といいます。
知能の発達は年齢と共に上昇を続け、20~24才位でピークに達し、その後は横ばいになり、やがて老年期にいたり70才前後から低下を示します。
このような状態を正常老化といいます。
老年性痴呆が急激な下降線で知能低下するのに比べ、正常老化はゆるやかな下降線を示します。
正常範囲の記憶力低下と病的なものとは、その低下の深さや速度が全く異なります。
痴呆の場合には、軽い記憶障害から家族や"自分"を忘れるまでの期間が数カ月単位であることも珍しくないのです。
日本をはじめ、高齢化社会を経験しつつある欧米社会でも、この痴呆の原因究明に多大な努力が払われていますが、今のところなすすべもないことは周知の事実です。