香川県高松市での整形外科・内科・健康診断・予防接種は吉峰病院へ。

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エッセイ

エッセイ

やまざくら「(2)」

30分位も降り続いただろうか。すっかり晴れ上がった空と木々の緑が鮮やかにはえる夕暮れになった。
自然は宝の宝庫だ。心がすさんでいる時、悲しい時、怒っている時、いつでもその豊かな懐を開いてくれる。
小川のせせらぎ、風のささやき、波のざわめきがとがった心にやさしさを戻してくれる。
一段と増した緑の波が、風とたわむれ気持ちよさそうに揺れている。穂に残ったしずくはキラキラと輝き、すがすがしい午後になった。 医局へ戻ると、研修3年目の岩崎先生が真剣な顔で書類とにらめっこしていた。
色白のがり勉タイプだが、外観だけで判断するのは早計である。もの静かな内側に燃えるような情熱を潜ませている。
目下、遠距離恋愛をしている最中だ。
だから週末は京都を目指して車を走らせている。
本当は今すぐでも飛んでいきたいのだろうが、今度の学会で初めての論文発表を控えている。
先週末から書類の作成やスライド作りで医局にこもりきりになっている。
「はかどってますか?」近づきながら僕は言った。
「いやぁ、なかなか。質問に答えられなかったらどうしようと、気になっちゃって。」目を上げながら答えた。
手元の書類は赤い線や書き直しの箇所かいくつもあり、自分でも判読しにくいのではないかと思った。
机の上には消しゴムのかすが、彼の努力の証しであるかのようにまき散らかされ、飲みかけのジュースが飲まれないまま上部に薄くほこりをかけている。
「開き直る事ですよ。それと落ち着く事。」偉そうに僕は言う。
「度胸ないんですよ。今も手が震えていますよ。」
細く長い神経質そうな手を見せる。
「皆、そうですよ。」大丈夫とVサインを送ってみせると笑いかけたが、笑顔は引きつっていた。
終わってしまえば「何~んだ!」てものだが、今は無理だろう。
そこへコーヒーを片手に内科の樋口先生がいつものように入ってきた。
彼のコーヒー狂はつとに有名だ。片時も離そうとはしない。
ひょっとして許されるなら患者の診察をしながらでも飲んでいたいのではないだろうか。
大きめのマグカップに並々と熱く濃いコーヒーを入れて、幸せそうな面持ちで椅子に深く腰掛けた。
あんなにカフェインを吸収しては体に悪いのではないかと、僕は余計なお世話をしてしまう。
「あっ、ちょうど良かった。328号室の患者なのですが、少しおかしいですよ。確か吉峰先生の患者さんですよね。」
僕の考えを知ってか知らずか、樋口先生はのんびり話し出した。
「はい、そうですが。えーと、古川さんのことですか?」
あわてて答える。
「そうです。さっきも看護婦とやりあってましたよ。」
のんびりと答える様子はちっともこまってはいないようだ。
古川さんは脳卒中の後遺症で左マヒになり、そのリハビリ訓練をしている女性だ。
退院した後の家屋改造の話をご主人と先日話し合ったところだ。家のトイレが少々狭いために、便座をななめにセットしたらどうかとか、手摺りの位置はひじを30°に曲げて手が届くところが一番立ち上がりやすい場所ですよなどと提案した。
左マヒの体にまだ慣れなくて何をするにも時間がかかるが、一生懸命リハビリに励んでいる。
家族の協力が何よりの支えで、その精神的な影響力は大きい。
幸い言語障害はないが右に負担がかかるため、右膝関節に痛みが出始めたのが気になる。
「おとなしい患者さんですよ。どちらかと言えば、無口な方だと思いますが。」患者さんの顔を思い出しながら答えた。
「そう思ってたんですが、すごかったですよ。看護婦をどなってましたから。どうしたのと聞いても返事もしないで、ベットにゴロンとふて寝でしたよ。」その時の状況を思い出したのか、お手上げと肩をすくめた。
「看護婦は何か言ってましたか。」同調できなくて聞いた。
「ああ、泣きだしてしまって。その後トイレに入っちゃったから、手のほどこしようがなくて、婦長に頼んできました。そのうち報告に来るでしょう。」あまり関心もなさそうに言った。
「さっきもとおっしゃいましたが、前にも何かあったのですか。」不審な気持ちが尾をもたげた。
「先週だったかな。当直で夜中に呼ばれたんですが。急に家族を呼べの一点張りで、往生しました。」
「えっ、何も聞いてませんが。」初耳だったので思わず身を乗り出した。
「いや、それだけだったから報告はしなかったんです。それに、じきにわかって了解してくれましたから。寝ぼけたんでしょう。」
満足そうにコーヒーを口に含み、背もたれに深く身をもたせる彼の頭に、古川さんはすでに存在してないようだ。
その時、廊下を走って来るバタバタという音がした。
「先生、大変です!」新米の島崎が、ドアを蹴破るように飛び込んできた。
僕たちは思わずいっせいに立ち上がった。
患者の誰かがショック状態か、急患かと思ったのだ。
「泥棒です。」勢い余って島崎は、ドアの取っ手につかまりながら叫んだ。
「何!」意味がわからず、ほとんど皆、同時に聞き直した。
「だから泥棒ですって。」地団駄をするように足踏みしているのが何となくおかしかった。
「どこで。」岩崎先生がたずねた。
「病室で財布がないって言ってるんですが。」声がしだいに小さくすぼんだ。
すこし大声すぎたことに気づいたようだ。
僕たちは思わず椅子に座り込んだ。
体中を一瞬、駆け巡ったアドレナリンが行き場をなくしたようだ。「何だよ、それなら事務長に言ってくれよ。」
樋口先生がこぼしたコーヒーをふきながら言った。
「だめなんです。皆でパニック状態なのです。盗まれたのは10万円ですよ。」金額の大きさを強調するように言った。
「そんな大金をどこに置いていたの。」
書類から目を離さずに岩崎先生が尋ねた。
「枕元にちょっと置いていたそうです。」三人の顔を順に見ながら、僕たちの反応の冷たさに戸惑っている。
「誰が取られたの?」かわいそうになり僕はたずねたが、これはやぶへびだったとすぐに思った。
「古川さんです。」彼女の答えは、僕に引導を渡した安心感がにじみでていた。
樋口先生が意味ありげに僕を見た。
どうやら僕に行けと言っているようだ。
「わかったよ。行きますよ。島崎、婦長は何といっているの?」
立ち上がりながら、未練気に樋口先生を見ると、もうマグカップに顔をうずめて、立ちのぼる香りに目を細めていた。
「それが、本当にそのお金があったのか疑わしいと・・・」
彼女のせいではないが、なんとなくもじもじと答えた島崎がドアを開けたところで、走ってきた婦長とぶつかりそうになった。
幸い、転びはしなかったが、彼女の蒼白な顔が間近にあった。
「先生、遅いじゃないですか。」こんなに接近した婦長を初めて見たので、うろたえた僕はトンチンカンな返事をした。
「えっ、ごめん。痛かったですか?」
「違いますよ。古川さんですよ。警察に訴えるって病院中に聞こえるような大声だしてますよ。」
 婦長は僕を言い負かすのが楽しいのだろうかと一瞬考えてしまうほど、うれしそうな表情を浮かべている。
「本当に盗まれたの?」立ち直りの早さも芸のうち、とばかりにすばやく答える。
「そんな事わかりませんよ。先週も坂井さんに財布を盗んだと言って、大ゲンカ。ともかく病院中の人ともめごとを起こすつもりみたいで。誰もかれもが自分の物を盗もうとしていると思っているのですから、手に負えませんよ。」
「じゃっ、今回が初めてではないの。?」僕はあせって聞き返した。「ええ、最初はそんなでもなかったのですが、近ごろは夜中に盗まれるといって騒いだりして、もう看護婦たちもどうしていいのか困っているんですよ。」急ぎ足の僕に婦長は小走りになった。
「何故、その時に言わなかった。」少し怒りがわいてきた。
そんな僕にすまなそうな婦長が続く。
「すみません。たいした事とは思わなかったし、本人も後はケロッとしてましたから。」首をすくめて答えた。
「でっ、その財布は?」婦長の肩越しに島崎が聞き耳をたてている様子がみえた。
「ありました。枕の中に隠したのを忘れてたそうです。」
「今回はどうなの。」
「違うと思いますよ。大体そんな大金を持ってるはずないと思います。」考えながら婦長がゆっくりと答えた。
「どうして!。」島崎はもっとやれと僕を励ますように、後ろからガッツポーズを送る。
「家族のお見舞いもこのところないし、外出許可も出てないから、10万円なんて持ってるはずはないと思います。」
確信しているように婦長は答えた。
雨上がりのさわやかな風が廊下を渡り、病院特有の匂いが少し薄れ、自然足取りも軽くなる。
この短い時間に次々と誰もが古川さんの状態について、何とたくさんの情報をくれたことか。
氾濫した川のように、見る間に僕を首までどっぷりと浸からせ、その多さに僕は溺れそうだ。
うなりをあげて、すべてを押し流そうとする本流のなかで、僕は自分の見当識が正しく働いているか、思わず知らずチェックしていた。
見当識とは空間や時間の中で自分の置かれた場所や時を位置づける能力のことをいいます。
例えば、私たちは今、自分のいる場所が職場とか家である事か分かっています。
左右や上下、どこへ行けば何があるかも、どこかへ行きたい時にもちゃんと目的地にいくことが出来ます。
これを「空間の見当識」といいます。
そして、これらがわからなくなった場合を「空間の失見当」といいます。
「時間の見当識」というのは、今が朝か夜かわかる事で、これが失われると「時間の失見当」ということになります。
婦長と歩きながら僕は悲しい現実をみていた。
古川さんの症状がある病名に酷似していたからだ。
だが今は想像の域を脱していない。
たくさんの情報を集めて、検査をしてみなければ診断は下せない。