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エッセイ

エッセイ

ふきのとう「霜天」第一章

北国の冬は長く、あつい雲は、はりついたように動こうとしない。
低くなった空に雪が舞う頃、高速道路も閉鎖になる。
長い冬の幕開けである。
1991年冬の朝
週に何回か雪かきの当番が回って来る。
社宅の玄関から門まで、一晩中降り続いた雪をシャベルですくいながら、昨夜の彼の訃報に心は沈んでいた。
彼が事故の後遺症で車椅子の生活をするようになって、まもなく二年になる。
リハビリは順調に進み、今に至っているが一抹の不安がないではない。
大多数の患者は自分の体が不自由になると、苛立ち、泣きわめいて枕をたたいたり、家族にあたったりして、その憂さをはらしながら、新しい自分の体と上手に付き合って行く方法を身につけていくのだが。
彼は抵抗しなかった。
動かない足が自分の物でないように無関心を装い、自分を欺いていた。朝日に輝く新雪が何もかもを上手に隠すように。
だがサクッとスコップをいれると、仮面ははがれる。
真っ白な表面の下に、昨日来の汚れが見えるから。
その下にある土まですくってしまわないように、気をつけながらスコップを入れる。
門の外にある雪落としの溝に雪を流し込みながら、冬が終わるまでに何回この作業があるだろうかとぼんやり考えていた。
おそらく手に水ぶくれが出来て、それがつぶれて、やがて堅い豆になるまでだろう。
作業で手が赤くなってきている。
冷えた手に息を吹きかけ、彼の残していった心の痛みに、終わりがあるように祈った。
あの時、僕は期待していた。
彼が僕に訴えるように。
自分の不運を大声で喚いてくれる事を。
それが彼に一番必要な事と知っていたから。
でも僕は未熟だった。
彼の本当の悲しみに追いつけなかった。
ここは冬の間、雪のために高速道路の閉鎖が多い。
真っすぐに日本縦断をしたくても、通行止めになるため、大きく迂回しなくてはならない。「陸の孤島」でもあるのだ。
だから病院の窓に広がる厚い雲をみて、「先生、ここは閉ざされた世界ですね。」と言った時に、面白い事をいうと思ったのだけど、彼は自分の心を、その時に閉じ込めてしまったらしい。
北国の夏は短い。退院していた彼は自宅で療養していた。
月に一度の診察の時にも、つらいとは決して言わなかった。
たんたんと受け入れる物は受け入れ、それ以外の物は・・・
見なかった。
無関心が彼に与えた物は何だったのか。
失う物が大きければ大きいほど、彼は醒めた目ですべてを放棄するすべばかりを会得したようだった。
彼は愛する人も排除した。
泣きながら差し伸べられた手を振りきる時、彼は何を考えていたのだろうか。
僕には何も出来なかった。
彼が閉め出したものの中に、僕も含まれていたから。
何も語らない彼の頭の中で、死へのいざないだけが甘美なささやきで彼を誘惑したのだろうか。
家族から一人で生活したいと彼が望んでいると、相談を受けた事があった。そうさせてやるべきだったのだろうか。
いや、一人で暮らす事は不可能だった。介護する人がいないから。
あれはたった一つ、彼が言ったわがままだった。
時々、気が向いたときには、スポーツに熱中していた時の事、好みの女性のことなど喋ることがあった。
でも自分の障害の事や、夢や、将来の事になると黙ってしまうのが常だった。
思えば一番に語り合い、共に悩むべきだったのだろう。
今となっては何一つ語らずに逝ってしまったと同じ事だ。
冬の日本海は荒い。
打ち寄せる波は怒涛のように岩を襲い、砕けて白い泡を残す。
名物の「波の花」だ。
そのするどい牙を流動する水に変えて、長年の間に岩をも削る。水は変身するのがうまい。
やわらかな波の下にしたたかな潮流を持ち、ゆりかごのような波間に人を惑わす。
彼は車ごと、その海にダイブしたらしい。らしいとは今も発見されていないからだ。恐らく遺体の回収は不可能だろう。
死のその時でさえ、彼は自分の足を拒んでいたのだろうか。
使われなくなった筋肉の萎縮は早く、萎えた足は細い。
雪に差し込むスコップに力が入り、固い土にあたった反動は、腕を直撃して怒りを呼んだ。
彼にもっと強さがあったら。
いや社会がもっと障害者に対して理解があったら。
雪に閉ざされなかったら。
雲があつくなかったら。
僕が、僕が未熟でなかったら。やがて痛みは指先までの痺れと変わり、心の嵐も急速にしぼんだ。
深い悲しみは日本海の青さだ。
冷たい海に沈んだ彼の悲しみに、今、やっと追いついたような気がする。
彼が望んだのは、現実からの逃避。
僕に残してくれたものは、限界という境界線だった。
個人が出来ることは些細な事だ。
彼が境界線を引いたのなら、僕は限界への挑戦をしよう。
希望は必ずある。
悲しみは時間が解決してくれる。ただ乗り越える勇気さえあれば。自分を責め恥じるのではなく、心に誇りを持とうとすれば、道は開かれるはずだ。
雪がちらつきだしたようだ。
このまま降り続ければ、明日は誰かの当番になる。
冬が終わるまで、このスコップは手から手へ渡されていく。
小さな社宅という地域のバトンタッチリレーだ。
最後の雪を溝に流し込んで、白い絨毯に刻まれた一筋の線をたどって戻ると、はや積もり始めた雪に歩いた足跡が残る。